檸檬かじる、酸いと恋と。  

檸檬かじる、酸いと恋と。 

著;松川ケイスケ様

 

 

 

本編↓

 

 三月。

 空は何度も塗り直したような紺色の夜。吐く息で会話できてしまいそうな、ちくりとするような寒さが街には残っていた。少し大きめの鞄には、ここぞとばかりに出番を待ち構えていた指名打者のような新品の面々が、あふれんばかりに敷き詰められている。新天地に向かう若人の荷物としては、まあ優秀な方だろう。向こうで買い揃えるものも少ないはずだ。なるべく田舎者に見られないようにと、一番派手なものを選んだからだろうか。周りと比べれば、季節感のかけらもないこの格好は大分浮いているような気もする。

 負けるわけはないという薄皮の自信に、ぱさぱさのアンコのような本性を隠して、僕は夜行バスのバス停に、大好きな彼女と一緒に立っていた。左手には彼女の手。右手には、僕一人分の東京行きのチケットを握りしめて。

 どうにもならない感情を胸に、僕は笑っていた。彼女も笑っていた。

 そんな気がしたのだ。

 

  *****

 

 耳をすませば遠くのトラックの運転手の溜息まで聞こえそうな、静かな街だった。

 若者(といっても若者なんて数えるくらいしかいないんじゃないか、と思うが)の集まる場所といえば、少し緩めの坂道をこれでもかと登り切ったところにある「本・レンタルならお任せ!」の看板が目印〟ビブロス゛という書店だった。

 田舎の特性をこれでもかと活かした広い駐車場の隅っこで、鬱蒼としたやり場のない宇宙エネルギーのような僕らの活力は、その場所に集まり他愛のない話に花を咲かせることで発散されていた。

 もっぱらニ、三人の幼馴染のたまり場となっていたが、中学・高校とねずみ講式に増えた知り合いを新メンバーとしてそこに参加させることもあった。気づけば自然と人数は増え、いつだって金曜の夜には五~六人が顔を集めるようになった。

 毎週金曜日、必ずといっていいほど開催されていたその「会合」で、僕は泉(いずみ)と知り合った。


 泉は僕と同じ中学出身の藤木と同じ高校に通っている。なのであまり泉の学生服姿を見ることもなかったが、おそらく泉を最初に見た同じ学校の生徒は、教育実習の先生か何かと勘違いしたはずだ。そのくらい泉は他の「男子」とは一線を画していた。

 マッシュルームのような髪の毛は少し栗色に染まり、あごにはうっすらひげを蓄え、右の耳には小さなピアスを付け、その幼い顔から連想される年齢は、霧の中に身をひそめるカモシカのように、彼をアンニュイな香りで覆っていた。

 泉はオシャレだった。なかなか手に入らないナイキのナントカカントカっていうスニーカーを持っていたり、Jポップ全盛時代、ボブなんとかっていう海外のアーティストがどうだとか、チル系だったらこれがどうだとか(もちろん僕は〟チル゛がカタカナか漢字か平仮名かも分からなかったが)毎週金曜日の例の会合では、必ずと言っていいほど新しい話題を提供してくれた。

 僕はそんな彼の話題を聞くのが好きだった。彼と一緒にいると、おぼつかない男性のスタートライでまごまごとしている自分が、少しマシに見えるような感覚があったファッションの話。音楽の話。女性の口説き方。どれも魅力的なものばかりだった。


「うちのかあちゃん、まだ弁当持っていけっていうんだぜ。もう学食とかでいいのにさ。なんつーか、過保護っつーか、子離れしないつっつーか」

 藤木がため息交じりにそう話した。

「あーわかるわ、それ。俺なんてさ、ここに来るのだっていちいち帰る時間メモして、しかも帰る前には電話もしないといけないんだぜ?面倒すぎるよ」

 僕はすかさずそう答えた。

「ほんと、早く一人暮らししてーなー。好きな時に好きなもの食って、好きな時間に寝て、好きな時間に外に出て。夢みてーだよ」

 泉は、ブーツをカツカツ地面にあてながら、その話を聞いていた。

 その日の会合には僕も含め三人が参加していた。友紀が少し残っている地面は、冷凍庫で冷やされたように冷気を放っていて、僕らは肩をすくめながら話を続けていた。

 不思議なことがある。あれほど饒舌な泉は、話題が「家族」に関するものになると、決まって無口になるのだ。

 そりゃあ僕らだって子供じゃない。彼にも何かしらの事情があるのだろうと、言わずもがな家族関連の話題は避けるようになっていたが、こんな風にたまたま話題に上がってしまった際、泉がまるで調子を合わせるように地面をコツコツやるのが、この会合の通例となっていた。

「じゃあそろそろ帰るわ」

 時刻は二十一時。いつもと比べるといくらか早いその言葉を発したのは泉だった。おっと、不意に家族の話題なんて出したからかと、少し気まずい空気が流れそうになった瞬間、「妹、ちょっと調子悪いみたいでさ」気まずくなる空気を察してか、泉はそう続けた。何とも気の利く男だ。十代の男子とは思えない何かが彼にはあった。


 あの時もそうだ。

 まだ暑さの残るじんめりとした夏の夜。僕らはその時も今と同じように、ただ集まってはくだらない話に花を咲かせていた。

 何度も言うが、僕の住んでいる場所はお世辞にも都会といえる場所ではない。観光地もなければ、これといった名物もない。あるのは大声を出せばこだまも帰ってきそうな程のどかな風景と、その静けさを爆音でつんざくヤンキーの大名行列くらいのものだ。僕らが集まるのは金曜の夜。週末前のバカ騒ぎなのか、週末をお出迎えするセレモニーなのか、そのタイミングで大名行列が行われることが多かったようだ。

 その日は運が悪かった。たまたま近くに漏れ出していた大名行列の一員が、僕らの仲間の一人に話しかけて来たのだ。

「なぁなぁ。小銭持ってない?ジュース買いたいんだけどさ、今ねーんだよ、小銭が」

 薄暗くその〟おこぼれ゛を照らす自動販売機の明かりが恐怖を煽るにはもってこい、抜群に効果的だった。それもあって、半ばカツアゲ状態になりうるその景色を、泉が一変させた。

「なぁ。お前○○○(おそらくチームの名前だが、僕には聞き取れなかった)だろ?こんなセコイことしてんじゃねーよ。○○さん(ここもよく覚えていない)にばれたらまずいんじゃないの?」

「は?誰だおめー。なめてんの?」

「泉だよ。名前くらい知ってんだろ?」

「は?・・・っんだよ・・・」

 大名のおこぼれはこちらを睨みつけながら、その場を後にした。

 一瞬、我々の間を静寂が走り抜けていったが、仲間の一人が声を発した。

「・・・え、泉ってそっちの人なの?」

 わざとらしく少し間を作った泉はこう答えた。

「はははっ。違う違う。そんなんじゃないって」

 既に大名行列が過ぎ去ったか否か周りを確認しながら泉は笑った。

「なんかさ、知り合いに超怖い先輩がいるっていうの昔聞いてて。ほら、たまたま苗字一緒だろ?だから覚えていたんだよ。こういうヤバイ時にもしかしたら使えるかな~とか思ってさ。実際死ぬほど怖かったよ」

 笑いながら話す泉を見ながら、皆も糸が切れたように一斉に笑った。またいつ現れるか分からないその大名行列にびくびくしながら、「泉先輩!」などと冗談を言い合い、その夜は過ぎていった。

 ただ、僕だけは何か違和感を感じずにはいられなかった。

 熱いコーヒーに大量の水を入れ、アイスコーヒーになる直前のあの違和感。ガチガチに冷えた体をお風呂に放り込んだ直後の、皮膚がお湯と混ざり合わないほんの数秒のあの感覚。笑っているようで笑っていない。嘘をついているようで本当の事を話している。確証もない感覚値ではあるが、なぜか僕だけはその違和感を感じずにはいられなかった。

 泣いたような顔で笑う、泉の口元が目に入ったからだ。

 違和感はそのまま僕の頭にこびりついていた。コップの底で、溶けずに残った砂糖のように。